Dolpoの大御所様
Dolpo.BCへ、沢山の山図書を寄贈して頂いたDolpoの大御所様がまた・・・旅立たれた。
今年の夏、私の遠征前だった。
でも、知ったのは帰国後の事だった。
年内に書いておきたかった。
普段からも連絡していたのでまさかの出来事で、今でもまだ信じられないでいる。
もちろん出発前もメールのやりとりはしていて、夏も会う予定だったけど、私の遠征と重なり会えないね、、帰国後に話を聞かせておくれと言っていて、最後のDolpoだと思って思いっきり行ってこいと言ってくれていた。
水谷さんとは、故・大西バラサーブの隊でDolpoに2回一緒に行かせて頂いた。
2007年と2009年、それ以来仲良くさせて頂いていた。
関東に移ってからも関西に来た時は連絡もらってタイミングあった時は店にも遊びに来てくれたり、
年齢は父より上だったけど、友達のように接して頂いていつも楽しかった。
Dolpoに入る前、ジョムソンからもショートメールを送ってたけど、返信がない。
帰国後もすぐメールしたけど、返信がない。
いつも返信はその日のうちに来るのに、ない・・・・。
でも、私もバタバタしていたので時間だけが過ぎていった。
でも、なんだかおかしい・・・と思って、携帯に電話したら「現在使われておりません・・・」
え、、、なんでやろ・・・、入院とかしてるのかなぁ、まさか?!
心配になってまたメールをして、次の日、ご自宅の方へ電話しますと書いた。
そしたら、その次の日、友達から聞いた、8月上旬に亡くなったと。。。
え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
まさかの予感が当たってしまった、、、。
そして次の日、奥様からもメールがきた。
あなたの耳には入ってるかと思ってましたと、、、。
何度か奥様とメールでやりとりし、電話する勇気がなかった。
きっと奥様の声を聞いたら泣いてしまうから、それはダメだと思った。
奥様の事を考えたら言葉が見つからない。
1971年Dolpoのツォカルポカン(6556m)の初登頂者。
当時、まだ地形的概念も明らかにされていなかったガンジロバヒマールの北東部分。
関西の紫岳会と大阪山の会が合同で登山隊を送り、それまで謎の多かった周辺地形を明らかにするとともに、その地の一高峰(6556m)に登頂し、ツァカルポカンと命名した。
水谷さんとの思い出を書きたいと思う。
去年の秋、東京でテンジン・ヌルブさんの絵画展があった時に、現地で待ち合わせて、水谷さんのお住まいへ八王子に泊まりがけで遊びに行った。
久々にお会いして、話が弾み、東京駅で降りるのを忘れるぐらいずっと喋っていた。
いつも優しくて、いっぱい話をしてくれる方だった。
それで、泊まっていいよと言ってくれたから、ほんとに甘えてしまって、高尾山に一緒に登って帰りに奥様と合流して、ご自宅で夕食を頂いた。
帰りの夜行バスの遅い時間まで自宅にいて、最後バス停まで送ってくれた。
一人で行くと言ったけど、近くやからええよ、って言いながら、眠そうだったよ・・・。
高尾山では、一緒に登るのは2009年のDolpo以来だなぁと思って、色んな思い出が蘇った。
ネパール遠征には奥様もご一緒に行かれていて、当時の事を昨日のように覚えていて話が尽きない。
凄い楽しかった、そしてご夫婦がとても仲良くて見ていて本当にいいなぁと思った。
奥様の日記、アッパームスタンのチョゾンゴンパ情報は、ものスゴく役に立った。
初めてお会いしたのは、2007年の遠征だった。
河口慧海ルートの再調査だった。
ちなみに、後ろにいるのは大西バラサーブ。(これ、狙って撮った^^)
慧海が越境した峠クン・ラでの撮影です。
ネパールとチベットとの国境。
カンテガ未踏峰(6060m)では2次隊で一緒に登らせて頂いた。。
突然の私の参加に、とっても優しく接して頂き、ほんとに感謝だった。
右の入沢さんは、最後までバラサーブのパートナーだった。
1次隊は、ルート工作で先に出発し、私達はBC泊まりだったが、途中まで偵察に出た。
未踏峰を登るってこんな感じなんだーとワクワクした。
そのハイキャンプで、一番下っぱの私は、テント場作りに励んでデッカい石を運んでたら腰をいわしてしまって・・・、ギックリ腰!?のようになった、笑。
テントで寝とけーって、、、何もせんでええねん言うたやん、って言われて・・・。
ほんまにめっちゃ痛くて寝れなかった・・・笑、
あの時で70歳は過ぎていた、でも後ろからガンガンに登ってきて、遅いぞーーって言わんばかりに強かった。
カンテガのBCでは、登頂後にカットさせてもらった。
続いて2009年も誘って頂き、バラサーブ達は未踏峰調査&登頂され、私だけ一ヶ月ほど遅れてムグ村より少し南の出合での待ち合わせだった。
それからMuguからDolpoへの横断で、この遠征ではヒマラヤ横断の面白さを教わった忘れられない遠征となっている。
故・大西バラサーブ隊は、みなマイペースで一人で歩くスタイルで一番遅い私をいつも心配してくれていた。
特に沢沿いでは、私もこれはやばいと思ってカメラを直して必死に着いて行った。
でも、前後誰もいなくて、これ、どっち!?・・・って思ってキョロキョロしてたら、岩の上から、おいこっちやで~と、ここ登ってこれるか?っと、、手を差し伸べてくれた。
いつも気にかけてくれて本当に優しい方だった。
この遠征中では、またツォカルポカンがみえた、でも、角度が違っていて私は気づかなかった。
でも、写真だけはバッチリ撮っていたので、水谷さんに引き伸ばしてプレゼント出来た事はよかった。
みんな逝ってしまう・・・、ほんとに逝ってしまった・・・
年を重ねると仕方のないことだけど、やっぱり悲しいよ、寂しいよ。。。
昔のDolpoのこと、ネパールのこと、気かせてほしいよ・・。
もう聞けないと思うと残念でならない。。。
奥様からお電話を頂き、話すことで頭の中で整理が出来てきた。
Dolpo遠征の報告、いっぱい伝えたい事あったよ。
今回の遠征中、絶妙なタイミングでピンチを何度か切り抜けてきた。
あの時、いたね、水谷さん。
大西さんと吉永さんがきたと思ってたけど、水谷さんも一緒にいたんだね。
見守ってくれていてありがとうございました。
でも、聞いてほしかったよ、ほんとに。。。
最後にプレゼントしてくれた、西ネパール・フムラで作られた木の器。
来年は、写真持って八王子に会いにいこうと思う。
水谷 弘治
大阪山の会 代表
日本山岳会(東京摩支部、関西支部会員)
日本ネパール協会・会員
(山歴)
1957年 大阪山の会 入会
1971年 大阪府山岳連盟ネパールヒマラヤ登山隊に参加
カンジロバヒマール ツオカルポカン 初登頂
1977年 カンジロバヒマール カンチュンネ 未登頂
1984年 台湾、楠梓仙渓・右俣~玉山 初遡行
1995年 ランタン ウルキンマン
1998年 カンティヒマール~ムグ~シミコット
2000年 西ネパール ナラカンカール 登頂
2001年 ムスタン 6300m峰 初登頂
ヨーロッパ、チロル・ウイルドスピッエ(山スキー)
2003年 トルボ~西ネパール・アルニコチュリー
2007年 トルボ・カンテガ~ブリガンダキ~ツアールコーラ
2009年 ムグ・カプタン~トルボ横断~ポクスムド湖
1957年~2015年 大阪山の会で登山活動
1970年 北岳バットレス中央稜 厳冬期第3登
ヒマラヤ巡礼の本の表紙となった場所。
故・ディヴィット スネグローブ著
故・吉永定雄訳.
今年の夏、私の遠征前だった。
でも、知ったのは帰国後の事だった。
年内に書いておきたかった。
普段からも連絡していたのでまさかの出来事で、今でもまだ信じられないでいる。
もちろん出発前もメールのやりとりはしていて、夏も会う予定だったけど、私の遠征と重なり会えないね、、帰国後に話を聞かせておくれと言っていて、最後のDolpoだと思って思いっきり行ってこいと言ってくれていた。
水谷さんとは、故・大西バラサーブの隊でDolpoに2回一緒に行かせて頂いた。
2007年と2009年、それ以来仲良くさせて頂いていた。
関東に移ってからも関西に来た時は連絡もらってタイミングあった時は店にも遊びに来てくれたり、
年齢は父より上だったけど、友達のように接して頂いていつも楽しかった。
Dolpoに入る前、ジョムソンからもショートメールを送ってたけど、返信がない。
帰国後もすぐメールしたけど、返信がない。
いつも返信はその日のうちに来るのに、ない・・・・。
でも、私もバタバタしていたので時間だけが過ぎていった。
でも、なんだかおかしい・・・と思って、携帯に電話したら「現在使われておりません・・・」
え、、、なんでやろ・・・、入院とかしてるのかなぁ、まさか?!
心配になってまたメールをして、次の日、ご自宅の方へ電話しますと書いた。
そしたら、その次の日、友達から聞いた、8月上旬に亡くなったと。。。
え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
まさかの予感が当たってしまった、、、。
そして次の日、奥様からもメールがきた。
あなたの耳には入ってるかと思ってましたと、、、。
何度か奥様とメールでやりとりし、電話する勇気がなかった。
きっと奥様の声を聞いたら泣いてしまうから、それはダメだと思った。
奥様の事を考えたら言葉が見つからない。
1971年Dolpoのツォカルポカン(6556m)の初登頂者。
当時、まだ地形的概念も明らかにされていなかったガンジロバヒマールの北東部分。
関西の紫岳会と大阪山の会が合同で登山隊を送り、それまで謎の多かった周辺地形を明らかにするとともに、その地の一高峰(6556m)に登頂し、ツァカルポカンと命名した。
水谷さんとの思い出を書きたいと思う。
去年の秋、東京でテンジン・ヌルブさんの絵画展があった時に、現地で待ち合わせて、水谷さんのお住まいへ八王子に泊まりがけで遊びに行った。
久々にお会いして、話が弾み、東京駅で降りるのを忘れるぐらいずっと喋っていた。
いつも優しくて、いっぱい話をしてくれる方だった。
それで、泊まっていいよと言ってくれたから、ほんとに甘えてしまって、高尾山に一緒に登って帰りに奥様と合流して、ご自宅で夕食を頂いた。
帰りの夜行バスの遅い時間まで自宅にいて、最後バス停まで送ってくれた。
一人で行くと言ったけど、近くやからええよ、って言いながら、眠そうだったよ・・・。
高尾山では、一緒に登るのは2009年のDolpo以来だなぁと思って、色んな思い出が蘇った。
ネパール遠征には奥様もご一緒に行かれていて、当時の事を昨日のように覚えていて話が尽きない。
凄い楽しかった、そしてご夫婦がとても仲良くて見ていて本当にいいなぁと思った。
奥様の日記、アッパームスタンのチョゾンゴンパ情報は、ものスゴく役に立った。
初めてお会いしたのは、2007年の遠征だった。
河口慧海ルートの再調査だった。
ちなみに、後ろにいるのは大西バラサーブ。(これ、狙って撮った^^)
慧海が越境した峠クン・ラでの撮影です。
ネパールとチベットとの国境。
カンテガ未踏峰(6060m)では2次隊で一緒に登らせて頂いた。。
突然の私の参加に、とっても優しく接して頂き、ほんとに感謝だった。
右の入沢さんは、最後までバラサーブのパートナーだった。
1次隊は、ルート工作で先に出発し、私達はBC泊まりだったが、途中まで偵察に出た。
未踏峰を登るってこんな感じなんだーとワクワクした。
そのハイキャンプで、一番下っぱの私は、テント場作りに励んでデッカい石を運んでたら腰をいわしてしまって・・・、ギックリ腰!?のようになった、笑。
テントで寝とけーって、、、何もせんでええねん言うたやん、って言われて・・・。
ほんまにめっちゃ痛くて寝れなかった・・・笑、
あの時で70歳は過ぎていた、でも後ろからガンガンに登ってきて、遅いぞーーって言わんばかりに強かった。
カンテガのBCでは、登頂後にカットさせてもらった。
続いて2009年も誘って頂き、バラサーブ達は未踏峰調査&登頂され、私だけ一ヶ月ほど遅れてムグ村より少し南の出合での待ち合わせだった。
それからMuguからDolpoへの横断で、この遠征ではヒマラヤ横断の面白さを教わった忘れられない遠征となっている。
故・大西バラサーブ隊は、みなマイペースで一人で歩くスタイルで一番遅い私をいつも心配してくれていた。
特に沢沿いでは、私もこれはやばいと思ってカメラを直して必死に着いて行った。
でも、前後誰もいなくて、これ、どっち!?・・・って思ってキョロキョロしてたら、岩の上から、おいこっちやで~と、ここ登ってこれるか?っと、、手を差し伸べてくれた。
いつも気にかけてくれて本当に優しい方だった。
この遠征中では、またツォカルポカンがみえた、でも、角度が違っていて私は気づかなかった。
でも、写真だけはバッチリ撮っていたので、水谷さんに引き伸ばしてプレゼント出来た事はよかった。
みんな逝ってしまう・・・、ほんとに逝ってしまった・・・
年を重ねると仕方のないことだけど、やっぱり悲しいよ、寂しいよ。。。
昔のDolpoのこと、ネパールのこと、気かせてほしいよ・・。
もう聞けないと思うと残念でならない。。。
奥様からお電話を頂き、話すことで頭の中で整理が出来てきた。
Dolpo遠征の報告、いっぱい伝えたい事あったよ。
今回の遠征中、絶妙なタイミングでピンチを何度か切り抜けてきた。
あの時、いたね、水谷さん。
大西さんと吉永さんがきたと思ってたけど、水谷さんも一緒にいたんだね。
見守ってくれていてありがとうございました。
でも、聞いてほしかったよ、ほんとに。。。
最後にプレゼントしてくれた、西ネパール・フムラで作られた木の器。
来年は、写真持って八王子に会いにいこうと思う。
水谷 弘治
大阪山の会 代表
日本山岳会(東京摩支部、関西支部会員)
日本ネパール協会・会員
(山歴)
1957年 大阪山の会 入会
1971年 大阪府山岳連盟ネパールヒマラヤ登山隊に参加
カンジロバヒマール ツオカルポカン 初登頂
1977年 カンジロバヒマール カンチュンネ 未登頂
1984年 台湾、楠梓仙渓・右俣~玉山 初遡行
1995年 ランタン ウルキンマン
1998年 カンティヒマール~ムグ~シミコット
2000年 西ネパール ナラカンカール 登頂
2001年 ムスタン 6300m峰 初登頂
ヨーロッパ、チロル・ウイルドスピッエ(山スキー)
2003年 トルボ~西ネパール・アルニコチュリー
2007年 トルボ・カンテガ~ブリガンダキ~ツアールコーラ
2009年 ムグ・カプタン~トルボ横断~ポクスムド湖
1957年~2015年 大阪山の会で登山活動
1970年 北岳バットレス中央稜 厳冬期第3登
ヒマラヤ巡礼の本の表紙となった場所。
故・ディヴィット スネグローブ著
故・吉永定雄訳.
ここから、一緒に登ったカンテガが見える。
by talkeetna6194
| 2016-12-31 04:40
| 日常日記