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Denali

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Himalaya メモ 4 先蹤者たち

まず、ネパールの歴史について少し触れてみる。
18世紀の半ばから始まったラナ家による専制統治から約200年のあいだ、ネパールは厳重な鎖国政策のもとに置かれていた。
1814年に起きたイギリスとの戦争は、1816年、インドのスガウリでの講和条約で終結し、それまでゴルカの領土拡大政策によって併合領有していたインドのクマウンやガルワルを放棄して、ほぼ現在のネパールに近い領土が確立された。
その後の協定によって、カトマンズにもイギリスの公使の駐在が認められるようになったが、その駐在官でさえ、ネパール国内の限られた地域以外に旅をすることは禁止されていた。
インド政府もまた、イギリス人が北の国境を越えることを禁じていたため、ネパール国内は依然として全くの地図の空白部のままだったのである。
当時、インド全土からチベットにかけての測量を進めていたインド測量官は、なんどかその空白部を埋めるべく、ヒマラヤの山地民の選ばれた者に測量についての教育を施し、ラマ僧、巡礼、商人などに変装させて、測量員を送り込めないヒマラヤ諸国やチベットに密偵として送り込んだ。
彼らは、パンディット(ヒンズー教徒の学者の意)と呼ばれた。
彼らが活動したのは、1865年からのほど20年ほどの期間であったと思われる。
数珠の玉を108個から100個に改造して歩測計としたり、携帯するマニ車の中に記録紙を忍ばせるなど、まともな測量器具がないなかでも、彼らはかなりの精度の高い結果を持ち帰ることが出来た。

西ネパール内部の旅の記録としては・・・・。

1865年にマニ・シンというパンディットが、カトマンズから西に横断してインドに帰還。

1873年に、西のインド国境ピトラガールからカリガンダキに出て、ムスタンからチベットのツァンポー河沿いのタドムを往復してカリガンダキ河を下った、ハリ・ラムというパンディットの記録がある。

また、スウェーデンの探検家、かのスウェン・ヘディンは、彼の第3回チベット探検の途中、1907年7月4日に、北側のチベット高原の、もっともトルボ地方に近いあたりを通っているが、ヘディンは、その膨大な学術報告書「サザン・ティベット(南チベット)」の中で、記録している。

ネパールの近代化に貢献したことで名高いラナ家第六代の宰相チャンドラ・シャムシェールは、1923年、英国とのあいだに友好条約を結ぶことによって、ネパールの完全な独立を公式に認めさせ、インド測量官に対し、初めてネパール全土の測量と地図の製作を許可した。
これを受けて1925年以降数年にわたって、初めてのネパール全土の測量が実施された。

ネパール開国後直後の1950年から、いち早くネパール全土の広範囲を歩いたのは、スイスの地質学者トニー・ハーゲンであった。
西ネパールでの足跡は、ツァルカからインナー・トルボには入ってないようである。

ってことで、先に述べたパンディットの探検を除けば、トルボを歩いた外国人は、1900年の河口慧海が最初だったということになる!

そして、トルボの地に、はじめて本格的な民族調査を行ったのは、1958年の川喜田二郎氏を隊長とする西北ネパール学術登山隊であった。

川喜田隊長の報告、(西北ネパールの山旅、山岳1959年号)の冒頭の文を少し引用してみると。。。

トルボがどうして私を惹きつけたのだろう。
ある一つの理由は、地図を開いてみればよく判る。
つまりそこは、ネパール領内で、一番高い土地なのである。
もっと東に行けば、マナスルとかエヴェレストとか、カンチェンジュンガといった高峰は沢山あるが、それらの地方は、山だけが高くて、谷間は案外低いのである。
トルボより西北へ行っても同じで、低い谷間からアピ、ナンパとかの高峰が孤立してるにすぎない。
これに反してトルボ一帯は、格別高い山こそなかれ、土地全体は、ヒマラヤ切っての高い地方である。
そこは、トルボこそまさにチベット高原の一角というべき「世界の屋根」であろう。

{引用 写真集  ドルボ 大谷映芳   解説・吉永定雄}

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世界の屋根・サルダンより
by talkeetna6194 | 2009-05-13 17:06 | HIMALAYA
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